孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

選択肢と多様性と自由意志と責任

 このタイトル、いろいろなものを書こうとして結局浅く触れて終わりそうな雰囲気しかない。

 

 2020年は多様性について考えることが多かった。というよりは、差別について考えることが多くて、その中で多様性という単語をよく目にした。

 考える際に自分が””前提としていた/なっていた””、今の自分にとって当たり前のことを残しておくのもアリだよなぁという気持ちになり、長くなりそうだったので急遽ブログを書き始めた。特に目新しいことはない。(念のためにもう一度書くが、前提である。結論ではない。例えばBLMについて自分なりに考えをもっているが、それについて扱ったりはしない。)

 

 ところでグラブルと研究で時間がない。グラブル運営もアカデミアも1日50時間ぐらいあると思ってるだろ。

 

 順序だてて書いていくのが難しいので(時間がかかるので)思いついてことから雑に書いていく。自分で読み返す分には十分に自分の意図を理解できるだろう。

 こいつブログ書くとき適当な文章しか書かないくせに、いつもこの断りをいれてんなと思われてそうだ。(え?誰も読んでないですか、そうですか...)

 ぼく目線だと、雑に書いている文章はごくごく少数なので(雑に書くことが許されているものはぼくが普段書く、書かされるもののなかで少数なので)、この断りをいれることに違和感はない。一方、このブログぐらいでしかぼくの長い文章を目にする機会がない人にとっては、自分はいつも雑な文を書いている人間なのだ。はい。

 

 多様性はおそらく、ないよりあったほうがいい。まずはこの話から。

 色々な多様性があるが、分かりやすいので意見の多様性から。これ前にブログでかいた気がする。

 まず、一般的な(一般的とは大多数の人が支持しているの意)意見が正しいとは限らない。抑圧されている意見が正しい可能性もある。(例外もある。たとえば数学においてはそうでないことが多い。円周率が1とかいう意見は聞く価値がないし、こんな多様性はいらない。)) 複数の意見が正しい場合でも(これはままある。人によって最適となる戦略は異なる。)そこから検討することで、より正しいものに近づける可能性がある。

 抑圧されている意見(弱者がもつ意見)が弾圧されると(誰も口にしなくなると)、それを目にする人がいなくなり(「口にしなくなる」と「目にする」が並ぶことに違和感ある人がいるかもしれないが許して)、その意見について検討される機会が失われる。絶対的に正しい/間違っているものについてはそれでいいのだが、残念なことに世の中のほとんどのものは白黒つけられないので、こういう意見もあるよねと検討されるほうがいい。(この文章を読んで「こいつは「正しい」の対義語として「間違っている」を使っているのか」などと考え、そこから潜在意識について考察をするような人間を知っているが、それについてぼくは価値を見出してない。(何の話?))

 正しいとはどういうことか、についても一応考えをもっているので残しておく。複数の人が、様々な立場から、同様の、もしくは異なる思考を経て同じ結論に至れるとき、それは正しい、という認識をしている。この認識だと一つの議論についても正しい結果が複数出てくるのがなんだが、まぁそんなものだろうと思ってる。正しいものどうしがぶつかって、より正しいものが生まれることもある。(もしくは一方が間違ってるとされ、他方がそのまま残ることもある。)本当に正しいものがあるとすれば、それは一度弾圧されても、違う時代、違う人のもとで再度発せられるだろう。宗教とか。(この文は宗教が正しいと主張するものではない。)

 

 意見について多様性があってほうがいいように、人の主体的な行為についても多様性があったほうがいい。

 行為は意見よりも直接的に他人に干渉する可能性がある(たとえば殺人とか)ため、絶対的に多様性を尊重することはできない。(素直に読むと、ここで意見については絶対的に多様性を尊重していいのかという疑問がわくだろう。ぼくの答えはYesだ。)

 とは言っても、基本的に行為の行為者の自由意志に基づいて好き勝手にやってもらえればいい。文化的な行為を規制することは、される側にとって、幸福度を著しく下げられることを意味する。渋谷ハロウィンやりたければやればいいじゃん(今年はこれをやると生命を脅かす可能性が大いにあったため、規制されるのも妥当であるが、普段は(それを楽しむ多くの若者と比較して)少数の(渋谷に住んでたりする)人間が困る程度なので全然ありという論理。(ところでハロウィンでナンパしてるやつらが憎い))。

 他人に過剰な損害を与えない限り、その人が好きにやるのが一番(社会として)幸福度が高くなりそうみたいな話。

 

 ......全然書きたいことが書けない。

 人の意見や行為(別にそれ以外のものでもいい。一般に人に付随する属性のほとんどは、多様性があったほうがされる)について多様性を認めることは、そもそも前提として、それを動詞する/動詞しないという択が与えられていて、そこから自由意志に基づいて選ぶことがある。

  1段落だけ脱線させてもらうと、ぼくの身近にはいないので仮想敵となるが、多様性の尊重の例として「犯罪や貧困があるほうが、ないよりも多様性を確保できている」とかいうことを言ってる人がいたりする。意味わからない。何のために多様性を尊重しているんですか。

 ここで、大事なのは多様性よりも、選択肢を幅広くもつことであるといえる。選択肢と多様性は異なる。たとえば、日本に男は5000万人いるが、女から行為を寄せられるのはアイドルのようなごく一部に人間だ。ゲームでmキャラでチームを組むとき、nキャラいたらcombination(n,m)通りの選択肢があるけど実際はごく少数の編成しか使わない。これは多様性は失われているが、選択肢は確保されている状態である。

 ちなみに、例えばカードゲームでは、環境が固定され一部のデッキのみが使われることがある。(Tier 0とかいわれるデッキがいい例)どんなデッキを握るのもプレイヤーの自由、つまり選択肢は無限に用意されているが、勝つためには事実上選択肢がない状態というのもよくある。というかこんなのばっかだよな、くそ。(一旦この話はここで止めます)

 

 

 そんなわけで(論理の飛躍)広い選択肢があれば多様性はなくていのじゃ、というところで一旦筆をおきたいのだが、それはこのブログを書き始めた自分に対して失礼なのでもう少し続ける。

 

 

 広い選択肢のなかから自由意志に基づいて選択を行う。これは、選択後について、選択者に責任が生じることを意味する。(やらないという選択肢があったのにわざわざやるほうを選んだのだから)

 え?そもそも自由意志はない?はい。自由意志はないが、自由意志があるように人間がふるまうという話。これについては長くなるのでレポートで課されない限り書きません。 

 カードゲームで弱いデッキ握っておいて負けたら、それは強いデッキを使った相手が悪いのではなくて、弱いとわかって使っている自分に非がある(マイオナがテンプレデッキを叩くのはおかしいという話)。なんでここでカードゲームの話をしたかというと、選択肢があると、そこから不平等が生じるという話がしたかったから。そしてこれは個人に問題があるということにされるからである。

 不平等を正当化する根拠として、個人の主体性に全てをおしつけることに成功している現代の影にあるのは、多様性崇拝だったりするのかなぁとか思った。

 

 無数の選択肢のもとで、自由に行動し、選択したという重荷を背負いながら今日も楽しく頑張るゾイ!(おわおわり)