孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

匿名性を取り戻せ

最近なろう小説が面白い。

 

そんなことはどうでもよくて、以下の記事にたまにコメントが来るのが怖い。昔の自分が書いた文章なんて恥ずかしくて読めたもんじゃない。最近は「インターネットは娯楽のためにあるものじゃないだろ(インターネットを娯楽のためにしか使わないのはもったいないだろ)」などの気持ちがある。まぁインターネットをどう使おうが個人の勝手なんだけど。

 

hudeha.hatenablog.com

 

で、暇なので上の文章を少し掘り下げてみようというモチベーションで文を書き始めた。とはいっても、恥ずかしくて過去の文章を読む気が起きないので、きっとこんなこと書いていただろうなぁという気持ちのもと、こういうこと触れとくといいよなぁというノリで書いている(なのでもしかしたらこれから書くことは上の文章と全く同じかもしれない。同じだったら許して)

 

昔のインターネットは面白かったなぁという思い出にぼくはずっと囚われていて、その理由の一つに、インターネットの空間にある種の一体感を感じたというのがある。現実では浮いててもここでは場所があることの安心感(?)。

この空間にいる人の多くが、この空間は現実とは別の空間であるという認識をしていて、そこで言いたいことを言う。誰が言ったかは関係なく、単純に発言の、制作物の中身がフラットに見られる。これはもちろん思い出補正があるけど、でもきっと今よりマシだろう。権威主義に対立するような空気をもっていた空間は、無力な人たちの連帯感を生んでくれていた。

しかしまぁ、今はその空気が薄れてきていてる。Twitterで過激な発言は許されない(凍結したアカウント返してくれ!!!)。誹謗中傷は罪になる。インターネットの空間にも権威が現れてしまった。権威が、来たし生まれた。

匿名掲示板で、文字通り匿名で、相手がだれかを(特定の個人を)意識しないで表現していた時代は終わった。SNSの発達に伴い個人が自分の空間を持ち、自身の空間で情報を共有、発信していく。どうしてもその背景の個人の存在がよぎり、またその一貫性に目が行ってしまう。

そして、何者かわからないけど面白いものを発信するという感覚は薄れ、代わりに、何者か分かり、分かったうえで/分かるから面白いという感覚を持つようになってきた。ほとんどの発信は個人に紐づき、そしてその人の物語の一部として捉えられるようになった。この風潮は特定の個人が人気になる現象を後押しし、そしてインフルエンサーという概念の下、インターネットでも現実でも大きな声で発信する存在を生んでいる。

よく知られる物語となっと人のもとには、その人の最新の発言に対して、過去の章をひっぱってきて攻撃するような人が現れる。「以前あなたはこんなこと言ってたじゃないですか」「あなたの今の発言は数年前のあなたの発言と矛盾してますよ」「自分の都合がいいように話をつくらないてください」ってね。一貫性を否定された人は、否定してきた相手が意味わからない匿名だった場合は、自身の一貫性に賛同してくれている人とともにそれを封じ込め、相手が同じく一貫性を持っている場合は、その相手の一貫性を否定することで応じる。(なんかこの段落、一般的な言い回しではなく、文脈を組んだうえで適当な言い回しをしているのでわかりにくい感じがする。最近こういうのよくある。相手の意見が自分と違うなと感じたときは、まずその言葉をどういう意味で使っているのか聞くのか丸い。)

こうして個人の権威が誕生して、影響力のある人がさらに発言力をもつ世界ができてしまった。これはもちろん良いこともたくさんあるんだけど、ぼくとしては完全匿名の空間というものに、やはり居心地の良さを感じてしまう。

 

以上、最近twitterより5chを見ている時間のほうが長いぼくの雑記。