孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

人生は選択の連続である/人生は選択でしかない

 

 かのシェイクスピアいわく「人生は選択の連続である」

 いや、選択でしかないだろ

 

hudeha.hatenablog.com

  この文は、いちおう上の文の続きという位置づけ

 さて、「感情に責任をもつ」という某氏のtwitterのbioについて、考えていくわよ(まだ直接は触れないんですけどね)(以降の文章に、内容に沿った適切なタイトルをつけるなら、「選択と意志」ですかね)(冒頭でシェイクスピアを引用するか、一昔前のライトノベル『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』から引用するか迷ったということも一応書いておく)

 

 人がなにか行動するにあたり、その行為が本人に意識されるよりも前に、脳内で何らかの活動が始まることが知られている。これにより否定されるのは、「行為の開始地点は人の(認知できる)意識のなかにある」という説である。意志の存在は否定していない。行為が、行為として行われるまでの様々な要素に影響を受けているのはわざわざ書くまでもない。脳内で起こることすべてを意識することなんてできるわけないから、行為が意識されるよりも前に脳内で何らかの活動が始まっているのは自然だ。

 わざわざこんなことを書くのは、しばしば意志の否定として上のような話がされるから。ちょっと待ってくれ。

 ここで否定しようとしているのは「意志」なのか?

 いや、「選択」である。

 

 ......はい。順を追って書いていく。

 

 まず、意志とはなんなのか、どう考えるのがいいのか。

 突然だが「記憶」は過去に関する精神的な器官といえる。記憶は自分が経験した、過ぎ去ったものについてのデータの集合だ。

 逆に、まだ来てないものについて、つまり未来に関わる精神的な器官を考えることもできるだろう。とりあえず、これを「意志」としたい。

 ところで、未来を未来として認めるには、未来が過去からの帰結であってはならない。未来は過去と無関係に存在する、始まりでなければならない。(ここ、書いていてちょっと怪しい気がしています。そして、ここが崩れると以降の文は全部崩れるのでよくない気がしています。でもこの怪しさを無視してとりあえず文を進めようと思います。)そしてそのような未来が認められたとき、未来に関わる精神的な器官として意志に場所が与えられ、始まりを司る能力、何かを始める能力の存在を認められる。

 ここで、未来を上のように考える、つまり未来を一つの時制と捉えていいということは、自明ではない。というか適当ではない。というのも、例えば動物の成体は精子のなかに内在していた可能性が発現したものである。樫の木はドングリに内在していた可能性が実現したものである。

 このように、実在する全てのものは、その原因となるものが先行しているはずだと考えられる。すると、未来を時制とすることはできない。というのも、未来は過去に存在していたものの帰結以外の何物でもないからである。未来は、あらかじめ存在していた可能性に先取りされている。(ほんとは英語に過去形はあるけど未来形ってないじゃないですかという、ありがちな話をするつもりだったんだけど、未来形がある言語も存在していそうな気がして、そうすると破綻してしまうので)

 

 さて、意志についてお気持ちを書いたので、選択について書く。

 よく「自由意志」と訳される「liberal arbitrium」であるが、arbitriumはjudgementやdecisionの意味であり、これはどちらが(何が)適当かという意味で「選択」である。

 ここで、自由意志は、他の何物にも支配されず自らの思うままに従う自律的なものは意味しない。理性や欲求に基づいて行われる選択である。そして、これ(選択)は過去からの帰結である。意志ではない。

 

 意志は過去からの帰結であってはならず、過去からは切断された絶対的な始まりでなければならない。

 ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為はその行為者の意志によるものではない。その行為はその人によって開始されたものではないからだ。もちろん、その人は何らかの選択はしただろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その人が自らの意志によって開始したのではない。

 とすると、日常において、選択は不断に行われているということになる。人は意識していなくとも常に行為しており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とはみなせない。

 よって、意志と選択は別物であり、区別されるものだといえる。

 選択とはこの世界に満ち溢れている事実である。行為は常に実現されなかった行為を伴っている。例えば自分がリンゴを食べたとすれば、それはミカンでもバナナでもなくリンゴを選んだのであり、もしくは「リンゴを食べない」という選択肢ではないほうを選んだのである。この意味であらゆる行為は選択である。

 そして、選択というこの事実は、様々な要因の総合として現れている。リンゴを食べたのはビタミンが不足していたからかもしれないし、先日テレビでおいしそうなリンゴをみたからかもしれない。誰かにリンゴを強く勧められたからかもしれない。そして、リンゴを実際に食べたのであれば、リンゴが好きだったのかもしれないし、それが食べ物であることも知っていたのかもしれないし、あるいはまた、はじめてそれを食べたのであれば、それを見た時に「食べられそうだ」という判断を下すだけの知識をもっていたのかもしれない。

 とにかく、過去にあった様々な、数えきれない要素の総合として「リンゴを食べる」という選択は現れる。そしてこれはつまるところ、過去からの帰結である。

 

 では、このような選択と区別されるべき意志とは何か。それは選択の傍らに現れ、無理矢理にそれを過去から切り離そうとする概念だ。ここで、意志は自然とそこに現れるのではない。呼び出される。

 リンゴを食べるという選択の開始地点をどこに見るかは難しく、おそらく確定することはできない。あまりにも多くの要素がかかわりすぎている。

 ところで、このリンゴが実は来客用にとっておいた、食べてはいけないもので、勝手に食べた責任を問われたとする。このときに登場するのが意志という概念だ。意志は自分の選択の傍らに寄り添い、そして、選択と過去のつながりを切り裂く。相手は選択の開始地点を自分のなかに置くことで、責任を問う。

 つまり、選択は不断に行われているもので、意志は後から呼び出され都合よく選択にとってかわられるものに過ぎない。

 選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、当たり前のことである。ところが、抽象的な議論の場では、いつの間にか選択が意志という言葉に置き換えられている。過去からの帰結でしかない選択が、過去から切断され始まりとみなされる意志に取り違えられるのだ。「意志は幻想である」といった場合の意志とは、意志ではなく選択であるのに、意志が否定された結論に至っている。

 

 最後に、ここまでの難解な文章に目を通せた聡明な人ならば、過去からの帰結であってはならず、また過去からは切断された絶対的な始まりである「意志」なるものが我々のなかには有り得ないという結論に容易に同意してくれるだろう。