孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

右足を出して左足出すと

 「歩く」ということについてとりあえず考えてみたいんだけど

 

 どこかに行きたい、もしくは純粋に歩くということを目的として(それは健康のためであったり、有り余る時間を消費しようという背景があると思われるが)人は歩く。

 歩こうと思って歩く。

 右足を出した後に左足を出した時点で身体は歩こうとしているように思える。

 

 まず、身体の各パーツはそれぞれが相互に情報を伝え連携し複雑な行動(「歩く」も十分に複雑な行動である)を可能にしている。

 このとき、身体のパーツ(腕や足、もっと細かく骨、筋肉、関節)のすべては、自覚的な脳からの指令によって動いているわけではない。(歩くときに「腓腹筋を~、大殿筋を~」なんて考えてる奴はおそらくいない)

 

 自分の身体が歩く準備ができて、それで歩けるかというと、大抵の場合は歩けるけど、例えば水の上は歩けないし空中歩行もできない。

 この例は極端だけど、全く同じ道(過去に辿った(着地した)場所)を歩くことは基本的にない。

 朝起床して部屋のドアを開けるまでのわずか数メートルでも足の置き場は無限に考えられる。

 日常ではそこが足場として確立されているのかについて考えない。

 つまりゲームのバグであるような急に足場が消えて無限に落下するといったことは考えないし、そこに足を置くとちゃんと着地し歩けるという過程をしている。

 

 どのように歩くかを考えることもない。

 どのように、というのは姿勢とか歩幅のことである。

 健康目的にジョギング、ウォーキングをする人は姿勢を意識すると思うが、そうでない場合は、なんとなく身に着けてきた歩き方をする。

 赤ちゃんは歩けないので、歩き方というのは後天的に会得したものであるが、後天的に会得したという事実すら忘れられがちである。

(どうでもいいんだけど最近ポケットに手をつっこんで歩くことに慣れすぎて手を振って歩けなくなった(からポケットがないときはスマホ片手に歩いたりしている))

 

 ところで、何か行動をするとき、脳内で行動(運動)についての一連のプログラムが終わったあと、行動をしようという意思が発生し、さらにその後その行動をしたときのシミュレーションが行われる、というのが神経科学の通説である。

 実際に身体が動くよりも前に、その行動をしたという気持ちになる。

 

 で、本題に入ると(そしてこの文章はもうする終わる)「歩く」に限らず何か行動をするとき、ヒトは自らの意思で、主体的にそれをしているように感じる。

 他人が何か行動をするときも、他人に何らかの意思があってその結果としてある行動をしたのだと思う。

 ここで、”自ら”の”意思”が何を指すのかを断定するのは簡単なことではない。

 結局、行為というのは、自らの意思が実現した結果とされがちだが、むしろ外的条件(ここまでの例にとれば地面や育ち)によって規定されているところが大きく、関係の実現と捉えたほうがより本質なんじゃないかって話。

 

 ちなみにこれは某氏のbioにある「感情に責任をもつ」を見て最初に考えたことを、誰かに話す機会が全くなかったので文章にしたものです。といっても「感情」にアプローチするのは難しいので、まだ分かりやすい「行動」から考えを始めていますが。この1、2年で意識に関する諸々の文に触れてきたので、そのうち追記していきたい。