孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

自分の言葉で表現しなさいとか自分の意見を持ちなさいとか

 

 よく言われるけどさ

 

 インターネットの普及に伴い、多くの人が自分の意見を世界に向けて発信できるようになった。ぼくぐらいの世代になると「なった」というよりも「であった」というほうがしっくりくると思うけど、まぁそんなことはどうでもよくて。

 ところが、インターネットを見ていると、実際に意見を発信している人は多くない。絶対的な数でいえば、ぼくが生涯で視界に入れる人の数よりも遥かに多いと思うけどさ、割合の話ね。で、発信してない人が他人の意見を受信しているのかいうと、それも違うように思える。

 あくまでもぼく目線で、ことtwitterに限った話になるけど、大多数の人は意見を表に出すことはなく、出しているものといえば感想とか共感だ。共感は人間関係を円満にするうえで不可欠で、別に共感してないで反駁しろなんて過激なことを言うつもりは全くない。ただ、意見を述べる人も、他人の意見を理解しようとする人も、多くないよねって話。

 

 ところで、自分の意見というものは無くても困らない。例えば死刑制度の是非についてなんかは、学校でやるディベートの真似事のテーマになることもあって、自分の意見を一応持っている人もいると思う。でも、この意見が普段の生活に生きてくるかというと、そんなことはない。飲みにいって死刑制度の話をしはじめたら気味悪がられるし(は?酒と女の話ばかりしやがって)、生き方そのものを変えることもない。普段必要なのは、感想と共感のほう。

 それなのに、自分にとって身近・無縁にかかわらずある事柄について、自分の言葉で表現しなさいとか自分の意見を持ちなさいと言われるのはなんなのか。この文章を読むようなもの好きな人は、もしかしたら言われる側ではなくて言う側なのかもしれないとふと思ったけど、言う側もどこまで考えての発言なのか怪しいものだ。

 

 で、先の文章の答えは次のようになるとぼくは思ってる。意見を述べることで、自らが何者であるかを示せる。右翼、左翼、フェミニストといったものは、意見表明としては稚拙だと思うけど、それでも自分の立ち位置を示すことができる。つまり、意見を述べることはアイデンティティ創出の一手段となる。

 というか、何の意見も持たない、発信しないのであれば、その人にはポジションがない。便利な単語で「言論空間」というものがあるので使わせてもらうと、そういう人は言論空間において、存在していないように扱われる。サッカーを全くやったことがない人がピッチに立っているような感じ。意見を述べるということは、言論空間に足場を作り自らの存在を宣言することだ。意見の正当性、論理的整合性はとりあえず無視して、意見を持つことで、表明することで、「彼はあそこに立ち位置にした」と認識され、そしてその人は何者かになる。

 ここで、意見の表明が言論空間に居場所を作ることとするならば、その居場所は他者から認識されることで成り立つとしていいだろうし、そしてそれは、自分が他者の存在を認識する上にたつ。A=Bという主張は、A≠Bという主張と、互いに相手を認めて初めて意味をもつ。自分と違う意見の存在を踏まえずに出る意見は、孤立していて、言論空間に居場所を得ているとは言えない。

 特定の立場を支持することは、基本的に誰かの反感や怒りの矛先となる。「人それぞれだよね」などどいう表明は、誰からもヘイトの向け先にならない無害なものだが、意見を述べるという行為をアイデンティティの確立とするなら、誰にも反発されない意見を述べることには何の意味もない(人それぞれという立場を表明することは悪くないが、意見という意味ではとても弱い)。同様に、反感を煽るためだけの発信(炎上商法であったり逆張りしかできないオタクの発言)は、誰にも反発されない意見のベクトルを変えただけで、自分が何者であるかを示すものとしては機能しない。

 言葉によって自分の立ち位置を固めようとするとき、批判に晒されることは避けられないし、むしろ批判にどう応じるかでその居場所の安定性が変わってくる。主張そのものの根拠を崩されれば足場は消えてなくなるし、自分のかつての主張と矛盾した主張をすれば、そのときも立ち位置を失う。議論すること自体から逃げた結果として説得力がなくなる場合もある(逃げたほうがいい批判のほうが多いと思うけど)。言論空間に居場所を持つことが出来るのは、信念を持って批判し、また批判される覚悟を持つ人間だけだ。

 

 これを全ての人に要求するのは酷で、そもそも自分が何者かであることを示すやり方は意見を述べることに限らない。意見を語る、というのはアイデンティティ形成の方法のひとつで、おそらくマイナーなものだ。言論によってアイデンティティを確立するのに向いている人間というのはそれほど多くないだろうし、自分に向かないやり方でアイデンティティを維持しようとするのは不毛だろう。

 そもそも、言論空間に足場を持つことによる得られるアイデンティティは、実際、多分、ほとんどない。まず、基本的に自分の意見というものを0から作り出すことはとても難しい。大抵は誰かの意見を参考に、それにちょっと付け加えて自分の意見として述べる。これしか出来ないといっても過言ではない。だから、自分の意見としたものが誰の影響をどれくらい受けているのかということは、常に頭の片隅に入れておいたほうがいい。自分の意見だと思い込んでいたものが、世間一般的な、極めて常識的なものであった場合、その人は何者でもない。また特定の人物の主張を自分の意見として(思い込んで)発信する場合、これも、その人に個性と呼べるものがあるかといえばNoだろう。なんとか出した意見も、似た意見とまとめられて、そういう属性の人として見られるだけで、文字通りのアイデンティティーとなることはないのがほとんどだ。

 先にも言った通り、意見というのはなくても実生活では支障のないものだ。意見を言う責任に耐えられない人が無責任な発言をしたところで、本人も周りも不幸になるだけだと思う。独自の意見を述べることを良いとする風潮があるけど、これは今の社会で一時的に流行しているものに過ぎないのかもしれない。人類史全体で考えると独創的な意見が重視された時代は、そうでない時代よりはるかに短いんじゃないかな。

 

 まぁ、だからこそ、自分の考えを自分の言葉で表明し、そしてアイデンティティを確立している人々がとても素敵に見えるんだけどさ