孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

合理的な自殺

 大学の課題で書こうか迷って、結局書かなかったものをここに残しておきます。

 

 ぼくは自殺というものを、幸いにも(これが幸いなのかは勿論人によるだろう)真面目に考えたことがない。正確には、自殺を試みようと考えたことは今のところ一度もない。自殺という行為(ないし概念)そのものについては人なみに考えたことがあると思っている。

 自殺はいけないもの、避けるべきものというのが大抵の場合は前提にある。(大抵と書いたが、今までの人生で自殺という単語が出てきた場面(例えばいじめとか)においては例外なく)しかし、現に自殺している人はたくさんいる。自殺が真に避けるものなら自殺する人は極めて少ないはずだろう(最も、自殺者は割合でいうと(日本の場合、年間で2-3万人なので日本の全人口を母数にすると)0.02%と極めて低い。従ってぼくは自殺を社会問題として真面目に取り上げるのはどうかと思っている(生涯で自殺する人の割合は2%程度というこうとである。2%の人間のために80%ぐらいの人間が議論することは有意義なのか?という気持ち)(自殺者は圧倒的に中年独身男性が多いですよね、女目線ではこんな人達を人と見たくないんじゃないですか?(叩かないで))のだが、暇つぶしにはもってこいである。)

 さて、自殺についての話を始めるにあたって、セアカゴケクモという蜘蛛についての話を紹介する(セアカゴケクモで画像検索すると、結構かわいい蜘蛛が出てくる。というか可愛いので検索して)(見てほしすぎるので画像はります)

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セアカゴケクモ(かわいい)(wikipediaからパクってきた)


 このクモのオスは、性行為の際にメスに食べられる(文字通り、食べられる)(クモでもセックスするんだなぁ(詠嘆))。楽しい(楽しいと快楽が一致するかと言われると違う気がするがそこはまぁいい)行為が邪魔されることは別として、セックス中に絶命するというのは進化的な見方(遺伝子を残すことが絶対的正義という視点)から見ると一瞬、妙に感じる(なぜなら彼らはもうそれ以降自らの代では遺伝子を増やすことができないから(妙に感じるのが一瞬だけですぐに合点がいくのは、このかっこないで理由がつく))。

 このクモの場合は自らの命と自らの遺伝子を天秤にかけて(天秤にかけてだっけ?はかりにかけて?)自らの遺伝子を選んでいるわけだが(クモが「選ぶ」ほどの知能をもっているかは分からないが、そういう結果になっているという意味)、これも自殺と考えていい気がある。人間以外の生き物も自殺するんだな!

 さて、相変わらず進化論的な見方から人間での自殺について考えてみる。繰り返すが、進化論的見方というのは、遺伝子を残すことが絶対的正義という視点である。この文から分かるように、もし自ら遺伝子を残すことが絶望的であった場合、自らの遺伝子と類似度が高い遺伝子が残るように動く。(このような条件付けをしなくても、例えば人間の兄弟、家族といった遺伝子が似た存在が食料を共有するのもこのような理由からだと考えられる。最も、人間は文化的なものが大きい可能性がある。まぁ人間以外の生物でも食料の共有とかは見られるのでヨシ!)このとき人間の自殺は次のように考えられる。自分の繁殖可能性が十分低く、かつ自分が存在し続けることが遺伝的近縁者の繁殖の妨げにすらなると感じた際、自殺するのが合理的である。この文はやや受け入れがたいかもしれないが、そういう見方もあるなぁ程度に思ってくれればいい(受け入れられない場合はここでこの文章を読むのをやめるといいと思う)。

 面白い結果があって(ぼくはこれを不謹慎ながら文字通りとても面白いことだと思っている)同性愛者の自殺率、ないし自殺をしようと考えたことのある割合は、異性愛者のそれよりもずっと高い。(これについてもっと興味がある人は論文探して読んで。)同性愛者は残念なことに、自らの繁殖可能性がないため、先に述べたように合理的に考えると、自殺する割合は必然的に異性愛者より高くなるのが分かる。はぇ~生きづらそうだ。

 ところで進化論的な見方するにあたって疑問になるのが、人は昔から自殺をしていたのかということだ。今ならピストル1つ、右手で引き金ひくだけで確実に死ぬことができるが(この方法をとらないで、ODとか首つりとか気体の組成をいじったりとかして自殺する人も多いが)(進撃の巨人で一番印象に残ってるの、序盤で絶望から逃れるために口に銃つっこんで自殺するシーン)、昔はこんな文明の利器はなく、たとえば窒息死みたいな、かなりの忍耐がもとめられるような方法が主なように思える。(そうえば映画『mid summer』ではカルトの人が崖から飛び降りて命の循環とかいってましたね、あれも合理的な自殺)なんか自殺手段こそ多様化しているものの、自殺するモチベーションは変わらない気がしてきたのでこの話はここまで。

 ここで文章を終えてもいいのだが、酔っているので(お酒と、さくさく文章をかいている自分に)もう少し続ける。

 人間はなぜ自殺するのだろうか。先程、"自分の繁殖可能性が十分低く、かつ自分が存在し続けることが遺伝的近縁者の繁殖の妨げにすらなると感じた際、自殺するのが合理的である。"とかいたが、これはあくまでも見方であって、自殺する本人がこのように考えて自殺するわけではない。セックスする奴らは遺伝子を残したくてセックスしているわけではない。気持ちいいからセックスしているのである。ここでいう気持ちいいにあたるモチベーションは何なのか。

 まず、ある基準以上で、ある基準に達しないことが考えられる(日本語が下手)。自殺率は、貧しい国よりも豊かな国(こういう表現すると貧しいとか豊かってどうやって決めてるんですかと疑問に思うかもしれないが、今はそんな重要ではない。経済的指標を参考にしていると思ってくれればいい)のほうが高い。これが「ある基準」の前者が意味するものの一例である。そのある基準を満たしている人が、自らの幸福について、(同じく基準を満たしている人と自分を比較するなどして)ある基準を設定し(これがある基準の後者)(そしてこの基準は高く実現困難なものである)、そしてそれが達成できないことに挫折して心が弱くなるときに自殺は起こりやすいと考えられる。

 自己非難や自責感から自殺する人も多い。死人に口なしなので自責感から自殺したかなんでわからないけどな(ワハハ)(STAP細胞がらみでおぼぼのボスも自殺してなかったけ、かなしいですね)。望ましい自分になれない自分(過去の自分と比較したり、最近のなんらかのできごとのせいで実現が厳しくなった自分)への思いが募って自殺する人も多い。

 ここまで書いて、自殺する人ってそんな考えずに「もう疲れたな...自殺するか~」ぐらいのノリで自殺してる可能性が頭をよぎった。まぁその場合でもその背景について考えることは無駄なことではないだろう。

 通称「無敵の人」(最近無敵の人という言葉を会話中で使ったら通じなくてびっくりした。知らない人はググって)もおそらくそうなのだが、自殺に踏み切るにあたって、ある種の視野の狭さは欠かせない。つまり、現在・現状からの逃避を最大の目標としてしまう視野の狭さである(退屈な話を聞いているときに、はやく終わらないかな~~と思うあれが、人生においてずっと続くと思うと確かに苦痛である)。

 最後に、自殺行為に対する慣れが必要である。自殺に対する慣れではない、行為に対する慣れである。ODするんだったら睡眠薬の使用ぐらいお茶の子さいさいだろうし、拳銃で死ぬならその扱いに長けてる(長けてなくても使ったことがある程度に知っている)といったことだ。つまり、これをやれば死ねるという安心を得るためには、ある程度の慣れが必要だという話である(これは特定の集団で自殺が多いとか、特定の集団では似たような自殺の方法が多いとかいう話。)

 ぼくは自殺したいとは考えたことないが、自殺する人の心境はこんな感じなんじゃないかと思う。まぁ違ったところで自殺した人はなにもいえないんだけど(もしぼくにそれは違うという人がいるとしても、その人も自殺する人ではないのである。せいぜい自殺未遂。)(この論理よくないですね、反論、感想大歓迎)自殺する心をメタ認知できれば、その思考を途中で止められる、もしくは最後までいったとしてもなお思いとどまれる可能性があるので、生きたい人はこういうこと考えといいてもいいのでは、と思った次第でした。

 

 

(酔ってるときは文章がすごい勢いでかけるのでいい(誤字脱字は許して))