孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

勉強して何を身につけているのか

 前からこのテーマに似たものを書こうとは思っていたんだけど、きっかけがなくて書き始められなかった。似たテーマというのは「なんのために勉強するのか」「勉強はなんの役に立つのか」といったものだ。

 主に勉強したくない中高生から発せられるこれらの質問は(小学生はこれを疑問に思えるほど賢くないし、大学生はこれを考えられるほど真面目ではない)、質問者自身が勉強から逃げるために発せられる(そして回答に困った大人をみて「ほら勉強って必要ないじゃん」などと勝ち誇った顔でいうのだ)。

 特に「勉強はなんの役に立つのか」の例として、「三角関数なんて役に立たない。生きていて使わない。」2ch創始者であるひろゆきは実際に三角関数が使われる例を挙げて役に立ってることを主張していた。全体的に「あなたがそれを使わない世界で生きているだけ(それを使う世界で生きられなくなる)」ことが問題で、「将来の選択肢を狭めるから学んどけ」という主張が多いように感じる(少なくともぼくの周りでは)

 ところで、ぼくは大学一年生ぐらいまでは数学が好きだったので、別に三角関数つかわなくたっていいじゃん、普通に学んでいて楽しいじゃんなどと見当違いの脳死の考えをしていた。(正直ほとんどの人は楽しいからやる/つまらないからやらないが先にあって、それを正当化するために後からそれっぽい理由をつけているだけだと今でも思っているので、別に考えとしては悪くないと思うが、疑問の回答としては適当ではない。つまり、「じゃあ私はつまらないからやりません」に対して何も言えなくなるので適当ではない。)それで、数学を学ぶのが苦しくなって、さらに三角関数とか虚数といったものを全く使わない(三角関数虚数が使われているものは使っているが、ぼくがそれを意識する必要は全くない)環境で生きるようになって、改めて思ったのである。

 何のために勉強するのか。

 

 ぼくは暇な学生をいまだに続けていて、少なくともあと2年はこの身分に甘んじる(周りの同じ年齢の人は働き、社会を動かし、賃金を得ているのに!)。つまり学び探ることだけしていれば許される身分の人間で、この問いに(自分で納得いく)答えを出すことなく生活を続けるのは傲慢なように思える。そんなわけで、時間があったことだし(時間があったというのは、大学1年から4年になる今までの3年間あったという話)ここで一回思考をまとめておこうというのがこのブログの目的である。ちなみにぼくは大学入学まではあまりこの疑問を抱かなかった(真面目に考えはしなかった)。テストでいい点をとるため、入試に受かるため。自分が勉強する理由はその程度で十分だった(数をいじることは普通に楽しかったし)。

 まず、一番つまらない考えを否定しておきたい。勉強する理由、より正確には大学にいく理由として(勿論一番はまわりが進学するからだろうが)就職するためというものがある。よりよい会社に就職するために(そしてひいてはよりよい生活をおくるために)大学にいくというものでだ。(ちなみに怖い人がいるので補足しておくと、会社に良し悪しはないと思っていますが、給料という指標で会社に順序をつけることはできます。)大学卒と、高卒の平均年収を比較すると、確かにこれは間違っていない(大学にいくことは、リターンが大きいように思える)が、就職するために勉強しているのか?というとこれは違うだろう。

 そもそもこの回答は、学ぶことと大学にいくことを同一視しているところが罠で、なぜ勉強するかの回答にはならない。(しかし冒頭で"大学生はこれを考えられるほど真面目ではない"と書いたように、大学生の多くは勉強していない。そういう人に向けて何らかの目的を与えるうえでは悪くない回答だと思える。)考えるまでもなく、この回答をされた学生の多くは次のように思う。有機化学の反応機構を理解することが直接就職に役立つか?大腸菌の遺伝子編集できることは就職に役に立つのか?と。ほとんどの人にとって役に立たないだろう。(一部の人(まさにそれを仕事にする人)にとってはとても役に立つ(どころか必須だろうが)それ以上に、無用だと思う人のほうが多いだろう。)ESの書き方とかグループディスカッションのやり方とかそういうのを身に着けたほうがよっぽど役に立つ。

 続いて、もう一つ、これもイラっとするので否定しておきたい。選択肢を広くもつために学んでいるわけではない。確か自分が小学生だったときの担任がこのように答えていた気がするし、割と勉強ができる人のなかにはこの考えをもっている人がいる。つまり、それをつかう世界で生きられなくなる、それを使う世界でいきるという選択肢を自ら失ってるとかそういった理由付けである。

 まず、勉強をすることは選択肢をひろく持つために最適な方法なのか。違うだろう。勉強する時間で別のことをやったほうが選択肢は広がる。というか浅く広くやるのがとりあえずの選択肢は一番広くなる。人と関わる時間を減らして数式と向き合うことは普通に考えると(ぼくの価値観だと)選択肢を狭める行為に見える。最も、これを言う人は自らの学によって今の生活を成り立たせている人が多いようで、その人の考えうる選択肢を最大限にもつためには、勉強は最適な方法なのかもしれない。

 選択肢を多く持っていても、実際に取れる行動は少ない。人はなりたくてもなれなかった像に惹かれ、なれたけどならなかった像には惹かれにくいせいか、自らの選択肢がなかったように思いがちだが、実際は無数に選択肢をもっているだろう(これはぼくだからそうと言われたら反論が難しいけど、でも選択肢が全くない人をぼくは見たことない。背中に銃突きつけられてどうこうみたいなのは除いて。)選択肢が多くありすぎることは、判断の目を曇らせるし、結局後悔の多い人生を送りがちだ。

 全然関係ない話題だけど、寧ろ今を生きる若者にとって必要なのは選択肢を減らすことだろう。youtubeのおすすめなんかはむしろ選択肢を減らすことを実際にやってくれているわけだが、ある程度の選択肢があればそれで十分で、選択するために費やされる時間は勿体ない、という話である。

 

 さて、この記事のタイトルは「勉強して何を身につけているのか」である(現時点では。後で変えるかもしれない。割と適当に始めて、思いつくままに書いているのであまりあてにならない。)「なんのために勉強するのか」ではない。「人が何かを求めるのは、自分にそれを持たない/足りていないからである」と誰かがいっていた気がして、ぼくも基本的にそのスタンスで生きている(つまり何が欲しくてそれをやるのかということを自分に聞きながら行動する)。なので、「何のために勉強するのか」という疑問は、「勉強することで何を求めているのか」と言い換えられて、そしてこの答えは、実際に勉強して何を身につけているのかを考えれば答えが出る。

 ほんとはこの言い換えは完全に間違っている。行動をして得た結果と、その行動の目的は必ずしも一致しない。ぼくはこれまでを振りかえってみて、勉強をして身に着けたものを、その目的に置き換えてしまっている。最初から目的があったわけではないし、むしろ今の目的は(学ぶことをを間接的な手段にして直接的なものは)別にある。とはいえ、これを整理することには一定の価値があるように思える。という思考から上のような言い換えをした。

 

飛ばし読みした人へ。ここからが本題です。

 

 さて、勉強して何を身につけているか。

 勉強して身につけるもの、それは知識ではない。思考の方法である。思考の道具として知識が必要だから、思考の方法を身につける過程で、知識もついていくる。

 思考の方法というのは、曖昧な言葉だ。ぼくは曖昧な言葉が大好きなのでほんとはここで格好よく終わりにしたいのだが(それで読んでくれてる人が、都合よく、好き勝手に妄想を広げてくれればいいのだが)それは無責任な感じがするし、何より構成としてバランスが悪すぎる。ようやくタイトルの話が始まったこの段落まで3000文字書いているのに、本題が80文字程度で終わってしまうなんてことは許されないだろう。(少なくとも今のぼくは許さない。前のぼくは許したので、過去の文章を見ていると、割とそういうのたくさんあるけど。)そんなわけで、この思考の方法というのをもう少し細かく書いていく。

 ぼくは思考の方法を大きく4つに分けている。といっても明確に4つに分ける必要はなし、今までそれに名前をつけることをしてこないでふわふわさせていたのだけれど、あえて書き出すなら4つに分けられて、あえて名前をつけるなら科学的思考、合理的思考、論理的思考、倫理的思考だろうかっていうそれだけの話。それぞれ見ていく。

 科学的思考というのは、観察し理解するための思考の方法だ。ところで最近科学的思考って全然聞かない気がする。論理的思考にとって代わられた感がある。でも世間一般的な論理的思考に論理は存在しなてく、むしろ世間一般的な論理的思考は(ぼくが使うところの)科学的思考とか合理的思考になるんじゃないかと思う。科学的思考というのは、中学生ぐらいのときに理科で学ぶ実験手法のそれである。つまり、何かに対して仮説を立てて、データを集めて検証し、それに対する理解をしていく方法のことだ。一番んこの思考をつかっているなと自分が感じるのは、コードかいてデバックするときだけど、一般には(ビジネス書でいうところの)PDCAサイクルを回すなんかもやってることはこれだと思う。
 合理的思考というのは、何か目的があって、それを達成するために道をつくっていく思考の方法だ。多くの人は(例えば人文学者とか)先に言いたいことがあって、それを裏付けるために良いデータを引っ張ってきてたりする(そんなことしていいんですか!?)し、twitterでの一見論理的に見えるレスバのこれにあたると思う。道をつくるというのは曖昧なので(許して)もう少し書くと、目的を分割してより小さく簡単な目的に分割すること、またそれがなぜ目的達成にうまくっているのかを考える方法が、合理的な思考だ。

 ぼくの書き方はいつだって曖昧で具体性に欠けるので、科学的思考と合理的思考の違いが分からない人がでてくるだろう。まぁ明確に違いを意識する必要はないと思うのだけれど。科学的思考はある事実があってそれをモデル化していく。一方で合理的思考は目的を達成するためにモデルをつくっていく。これが違い。

 論理的思考は、言うまでもなく論理的な思考だ。つまり、抽象的で純粋で厳密な論理体系をつかった思考方法だ。論理記号をつかった何かを書くと怖い人が怖いので(ぼくは論理的思考ができないので)簡単な例を挙げるにとどめると、A⇒Bとか、1+1=2といったものが論理的思考だ。(こういう風に書くと「それってつまり数学じゃん」となりそうだが、それは数学にも論理にも失礼なように思える。数学ほど論理的なものはないと思うけど。)基本的に科学的思考、合理的思考を他人と共有する場合、頼るのはこの論理的思考になる。抽象化されているから応用がめちゃめちゃきくし、人によって異なるということがない。

 最後に倫理的思考について。ぼくは倫理というものを(学問として)何も知らないし、倫理観がない人間だとかいわれるけど、それは倫理的思考とは考えない。これは要するに、「何をpositeveに、何をnegativeに思うか」という価値観そのものと、それによってできる判断を指す。これは時代によって異なっていい、人によって異なっていい、論理的でなくていい、時と場合で異なっていい、最終的に自らを正当化するために使われるものだ。何か決断を迫られたときに都度頼り、そして更新していけばよく、また時に違う倫理的思考を持つ人と会話して更新していけば良い。ぼくはあまりこれが好きではない、というかこれを認めてしまうとなんでもありになってしまうのが嫌なんだけど、上の3つだけだとどうしようもないものが世界にはあふれている気がする、ので上の3つと肩を並べさせている。

 4つの思考はこんな感じで支えられている。

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何か思考するとき、論理という土台の元、科学的に分析して、倫理的に判断して、合理的に実行する。これらを培うために勉強しているし、勉強することでこれらが培われるというのが今のぼくの考えていることである。

 

 最後に、別にこれらの思考方法はわざわざ勉強しなくても身につくものだろう。(特に周りにできる人がいて、それを真似ていれば身についていくように思える。)そして、勉強する過程で身につける必要もないかもしれない。(働いていく過程で身につけていく人も多そう。)そういう意味では、やはり思考法を身につけることは学ぶ目的ではないんだろうな、と。


おしまい。(5252文字)