孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

退屈についての退屈な話

 とりあえず5月まで大学は始まらないんだけど、一応本来の春休みの期間は終わるし、春休みの振り返りをしようと思ってた(過去形)

 

 「そうえば去年のこの時期からあまり人生に退屈してないなぁ」という気がして(つまり、「今日一日何もしなかった、虚無...死にたい...」という日が全然ないなぁと思って)、なんでか考えた時に、「そもそも退屈ってなんだよ」って話になって、それで退屈について考えたので、書く。

 

 タスクに追われてるときは「あぁ次なにやらなきゃいけないんだっけ......あ~めんどくせ~~」となって心が死にがち。逆に何もないときは「今日一日何もしなかった、虚無...死にたい...」となるし、もっと悪質な時は生きる意味とか自らの存在理由を考え始める(そしてそれは大体ネガティブな結論に帰着する)。

 

 ところで、退屈というのは何もしないという意味ではない(と思う。や、当たり前だけど。といいつつこれが書きたかったんだけど)。つまり何もせず自らの存在理由を考え始め、1日を振り返ったときに虚無になっているのは退屈ではない。どちらかといえば、前者、タスクに追われているときのほうが退屈なことが多い。

 どういうことかというと、退屈は自らの心がここにない状態、または時間が過ぎるのを待っている状態(つまり、暇すぎて時計を何度も見てしまう状態(時がはやく過ぎるのを待っている状態))だと思う。バリバリにバイトしてても退屈を感じることはあるし、気晴らしにどこかに出かけても退屈を感じることもある。

 

 いちおう明記しておくと退屈と暇は別物(だと思う)。暇は、時間がある状態、やることが特にない状態で、退屈とは意味するものが違う。(なんか「暇つぶし」と「退屈しのぎ」でやるものが同じなので似てる気がするけど、別物だよね。)ちなみにこの1年退屈することはなかったけど、暇だと感じることはめちゃめちゃあった。

 ついでに、退屈でない状態というのは、刺激がある状態(だと思う)。現状に飽きてない状態、何らかの刺激によってモチベーションを保てている状態。興奮している状態。(どうでもいい話だけど『DEATH NOTE』1話のタイトルが「退屈」なんだよね、主人公は退屈な日々をDEATH NOTEという刺激によって変えられたわけで、ぴったりなタイトルだなって思った)

 

 で、なんでぼくが退屈を感じなくなったのかという話に移るが(ここから自分語りがはじまるかも)、暇なときにやる何か(それは単に考えに耽ることであったり、太陽の光を浴びながらのあてのない散歩であったり)に対して能動的に楽しめることが挙げられる。あと「何かやってるけど退屈なんだよなぁこれ」と思うような面白くないもの全般を生活からうまく排除できている。

 退屈になる前に、それを察知して、意識を向けられる何かをやる、というそれだけの話。本来は受動的にやることを能動的に(積極的に)やる、また能動的にやっているようで実際は受動的にやらされていることを減らすといいのかなって。

 

 以下、駄文。

 退屈で、ついでにそこに孤独による寂しさが加わったとき、自分は幸せではなくなる。(最も、最近は孤独で寂しさを感じる機会はとても少ないし、むしろ孤独で嬉しいと思うことが多い(認知的不協和の解消ですか?これ))自分の存在意義が全く分からなくなる瞬間。ここ数年それを痛感することはないけれど、これってそんなに難しいことですか?

 

 おわり