孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

10分でわかる『饗宴』

 この記事は約10分で読める。目を通すことで『饗宴』(プラトン著)の内容をざっくりと抑えることはできると思われる。(間違ってても許してね。ネットの記事をあてにする奴は雑魚w(ググってもわからないという状況に加担しないことを願う))

 

背景説明

 著者プラトンソクラテスの弟子であり、イデア論で知られる。

 本書は、饗宴という場で、多彩な登場人物たちによって繰り広げられるエロス賛美の様子が、物語として描写される。議論のなかには哲学的要素が含まれ、話が進むにつれてその色合い強まる。

 エロスとはどんな神か。ギリシャ神話ではアフロディテとアレスの子であり、しばしばキューピッドとして描かれる。(これはアガトンの賛美でも見られる。)また、パイドロスの賛美ではヘシオドスを典拠にエロスのことを最も古い神だとされている。エロスは、人間の恋愛と結びついており、恋愛をめぐる現象の原因であると考えられている。従って、エロスの賛美は人間の恋愛への賛美でもある。

 古代ギリシャでは愛を表現する言葉として、エロス、フィリア、アガペーが挙げられる。エロスは主として異性間、あるいは同性間の性的な愛、およびそこから連想される激しい欲望を意味する。対してフィリアは人間間のより静かな情愛、つまり、性的関係よりも肉親間や友人間に成り立つ愛であり、家族愛や友情を含むものである。最後にアガペーは広く行為を表す概念である。

 エロス賛美を読むにあたりパイデラスティア(少年愛)という古代の性風習を知っておく必要がある。少年愛とは、成人した男性と成人前の少年との間に成り立つ関係である。現在の同性愛のようなものではないことに注意されたい。意識しておく点として、

・両者の関係は対等ではなく、規律で縛られている(成人男性のほうが主導的な役割を果たし、少年の方は徹底して従属的、受動的であることが求められていた)

・少年は成人男性に奉仕する役割を果たさなければならず、快楽を求めることは禁止

・成人男性は少年に対してエロスを、少年は成人に対してフィリアを抱く

・この関係は少年が成人したときに解消される

・同時に複数の相手と関係を築くことも可能

・教育的機能を持つ

 最後の教育的機能については本書で多く語られることになるが、これは少年が男性社会に仲間入りしていくためのイニシエーションのようなもの、それゆえ成人男性側は社会の常識や価値観を少年に教え、一人前の男に育てる義務があったと考えられる。

 従って、古代ギリシアの性・恋愛を、現在のわれわれのそれと同一視してはいけない。また、古代ギリシャにおいては男性-女性の関係もまた能動-受動であり対等な関係にはなかったことも忘れてはいけない。

 

内容

はじまり

 物語は、アリストモデスがソクラテスに出会う場面から始まる。アリストモデスはソクラテスに、アガトン邸に行こうと誘われ、二人でアガトン邸へと向かう。途中からソクラテスは思索にふけり、遅れはじめ、アガトン邸へはアリストモデスが先につくことになる。ソクラテスはおくれて着くが、アガトンはソクラテスが知恵を見出したと考え、彼の身体を触れることで、その知恵が自分のものに流れてくるという思考のもと、ソクラテスを自分の隣に寝かせる。

 この言動は、知恵の探求とその教育の問題について一つの考えかたを提示している。すなわち、教育とは、すでに知恵を持つものが知恵を持たないものに大してそれを分け与えること、というものである。

 

 食事が終わると饗宴が始まる。

 エリュクシマコスの提案で、この饗宴は酒を飲むのではなく、議論する(エロスの賛美合戦をする)場にすることが提案される。演説合戦という知的な余興は、当時の知識人の間では珍しいものではなかっただろう。

 

パイドロスの話

 パイドロスは弁論術を勉強中の青年である。稚拙ながらもテンプレにのっとった演説で、この演説合戦の火蓋が切られる。

 まず、有名な詩人や哲学者を巧みに引用してエロスを最も古い神とし、その由緒正しさを強調する。

 次にエロスが人間に宿ることで人間にどのような恩恵が与えられるかを語る。いわく、エロスとは人間が美しい人生を送るための導き手、すなわち羞恥心と名誉心を作り出してくれる存在なのである。(少年)愛の関係にある者たちは、エロスの力ゆえに、恋の相手に対して恥ずかしい行為を見せることを厭い、それゆえ勇敢な人間になるという。

 さらに、愛する夫のために死に、神に評価されたアルケスティスと、同じく冥府に向かったがエロスのために死ぬことはなく、結果として神に罰せられたオルフェウスを比較し、エロスによって死ぬことの意義を浮き彫りにしようとしている。

 

パウサニアスの話

 アフロディテには「天のアフロディテと」と「俗のアフロディテ」という二つのアフロディテがいるという神話伝承を利用し、エロスも「天のエロス」と「俗のエロス」の二人に分ける。「天の」は天神ウラノスに由来し、「俗の」は広く民衆に信仰されているにすぎないが、ここでは、「俗の」を「世俗的」と解釈し価値の対立を演出する。

 いわく、二人のエロスの価値的な差異は、人間の恋愛の行いに影響を与え、美しい愛し方(少年愛)とそうでない愛し方(身体を求めた異性愛)の対立を生む。(自己弁護らしき話と風習の話は略。)そして、少年愛が徳の教育という機能を果たすとき、それは美しい行為であり、それこそが天のエロスの働きと主張する。

 

エリュクシマコスの話

 医者であり、典型的な科学者として、理論的考察を中心としたレトリックに凝らない演説がされる。

 正直、この物語にこの演説が入ってくるのがわからない。というのも、彼は(他者が論じているような)人間のエロスについてではなく、対立する要素の調和というもっと広い括りでのエロスの話に終始するからである。従ってこれで終わり。

 

アリストファネスの話

 喜劇作家らしく以下に続く神話で、エロスを面白おかしく語る。

 かつて人間は、今の人間が背を向かい合わせに2人がくっつき1つの球体となった生物だった。この人間は神の怒りを買いゼウスによって罰せられ、真っ二つにされ、現在の人間の姿になった。

 エロスとは、この片割れを求め一体化しようとする欲求であり、かつての人間の本性である、という主張をする。※アリストファネスのこの話は有名なので、「アリストファネス 饗宴」でググるといいかもしれない。

 

 アガトンの話

 ソクラテス前の最後の話。アガトンの賛美は以下のようなものである。

 エロスは神のなかでもより美しい存在である。というのも、エロスは若く、繊細であり、しなやかな姿をしているから。また、正義、節度、勇気、知恵といった秀でた徳をもっていることから、エロスはあらゆる徳を身に着けた存在である。

 

こーひーぶれいく

 著者プラトンは、背景の異なる5人に、エロスを語らせた。これによって当時のエロスへの価値観を我々に提示しつつ、以降のソクラテスの話の準備、導入をしたと思われる。

 

ソクラテスの話.0

 アガトンの演説後、ソクラテスはここまでの演説の批判をする。賛美とはまず対象の真実の姿を述べ、それを基盤に行うものと考えていたが、ここまでの演説は真実の姿についての言及がなかったからである。さらにソクラテスはアガトンと対話を希望する。対話は以下のようである。

ソ「エロスとは、なにかのエロスか。それともなにもののエロスともいえないようなものか」

ア「なにかのエロス」

ソ「エロスがなにかを欲するとき、エロスはそれを所持しているか」

ア「所有していない」

ソ「では、エロスが美を求める存在なら、エロスは美しくないのではないか」

ア「ひえ~」

 

ソクラテスの話.1

 ディオティマという女性から聞いた話として、ソクラテスが話し始める。

 いわく、エロスは美しさと醜さ、よさと悪さの中間にあり、神と人間の間にある精霊(ダイモン)なのである。

 いわく、神話では、エロスはアフロディテの誕生を祝う際に、酔っぱらったポロス(機知と策略の神)と、物乞いに来ていたぺニア(貧乏神)との間に生まれた存在である。それゆえエロスはアフロディテと関わりがあり、美を追い求める存在なのである。また、エロスは両親の性質を引き継いでいる。すなわち、ぺニアと同じくあらゆるものが欠乏し、同時にポロスと同じく自らに欠けているものを手にするために画策する存在なのだ。

 

ソクラテスの話.2

 エロスが何者かが明らかになり、次にエロスは人間にとってどのようなことをしてくれるのかという話に移る。

 その前提として、エロスはなぜ美を求めるかというと、美を自分のものにしたいからであるが、ではなぜ自分のものにしたいのかということに触れる必要がある。ここでディオティマは、”美”を”徳”にすり替え、同様の問いをする。すなわち、なぜよいものを愛するのかというと、よいものを自分のものにするためであり、なぜよいものを自分のものにしたいかというと、それは幸福(εὐδαιμονία)と結びつくからである。幸福とは最高善(最高善という言葉を定義したのはプラトンの弟子のアリストテレスな気がするが)(人間の最終目標みたいなもの)であるから、人間がよいものを求めるのは、当時の当たり前だったのである。さらに、人はよいものを自分のものにすることを常に欲しているとする。

 こうして、エロスが善(徳)に向かうことが明らかになった。これを、美を求めるエロスと結びつける。

 ディオティマいわく、エロスのはたらきは、「美しいもののなかで子をなすこと」である。人間はみな、身体の場合であっても心の場合であっても、子を宿しており、時が来ると子をなすというのである。子をなすとは、おそらく、セックスのことである。

 子を宿しているものが美しいものに近づくと、喜びに満ち、子をなし、生む。醜いものに近づくと、不機嫌になり、萎え、子をなすことも、生むことにも至らない。ここでの、「美しい」、「醜い」とは、愛するものから見た評価であり、世間一般の評価ではない。したがって、「相手を愛す」と「相手を美しいと思う」がほぼ同義であることに注意されたい。

 

 エロスはよいものを永遠に自分のものにすることを望んでいる。

 これは、身体の場合であれば、自分の子供をつくることで果たされうる。というのも、死から逃れられない人間にとって、子を生むということは、自らの遺伝子を次の世代に残すことであり、これを通じて、自己を永遠に存続させることができるからである。

 ここでの「よいもの」とは子であり、「美しいもの」とはセックスの相手である。

 エロスは美しいものをよいものとして所有することを求める。というのも、美しいものによって、子を宿したものは生みたいという欲求が引き起こされ、子を生むことへと導かれるからだ。

 同様のことが心の場合についてもいえる。いわく、心の中に宿している子供とは徳のことである。徳を心に宿したものは、時が来ると(一定の年齢になると)子を生むことを望むようになる。この欲求は、美しいものを求め、その人は美しい心の持ち主に心惹かれるのである。そして、美しいものに様々な話をし、教え導き、これが徳という子を生み、そして育てていくことになる。(ここでの美しいものとは、おそらく少年愛におけるパートナーのことを指すが、性別年齢関係なくこの構図自体は成り立つ。)

 

ソクラテスの話.3

  ディオティマはさらにエロスの道の奥義について語る。流れとしては、美しい体への愛から始まり、次第に”上昇”して、最終的に「美のイデア」にたどり着くというものである。

 まず、若い時に、美しい体に心惹かれる。最初はその体1つを愛するが、やがて美しい体というものはみな共通の美しさを持つことを悟り、全ての美しい体を愛することとなる。次いで、体の美しさよりも心の美しさの方が尊いと考える。次に、人間と社会のならわしのなかにある美しさに観察し、それらの美しさの結びつきに気づき体を些細なものとみなすようになる。すると、知識の美しさを見ることとなる。そして、知恵を求める果てなき愛の中で、たくさんの美しい言葉と思想を生み出す。

 そして、突如として、美のイデアの知識に到達するのである。「その美は永遠であり、生じたり消えたりすることまなければ、増えたり減ったりすることもない」、「ある見方では美しいが別の見方では醜いとか、あるときには美しいが別のときには醜いとか、あるものと比較すると美しいが別のものと比較すると醜いといったものではない」。つまり、「ほかのなにものにも依存することなく独立しており、常にただ一つの姿で存在しているもの」である。

 

アルキビアデスの話

 ソクラテスの話がおわると、アルキビアデス率いる酔っ払い集団が現れる。エリュクシマコスは彼にもエロス賛美をさせようとするが、彼はソクラテスを恐れ、エロス賛美の代わりにソクラテスの賛美をすることとなる。

 まずアルキビアデスはソクラテスをシレノスの置物と比較する。これはソクラテスの容姿がサテュロスに似ていることと、意地が悪いことを指摘したいためである。次に笛の名演奏家であったサテュロスのマルシュアスと比較する。ソクラテスは楽器を必要とせずに言葉の力だけで人を感動させられることをいうためである。

 この後、彼は再度シレノスの置物とソクラテスを比較する。シレノスの置物は胴が割れ中に神々の像が入っていることと、ソクラテスの外面と内面の違いを話題にあげる。ソクラテスは(外見では)美少年好きであり無知だが、実際は(内面は)相手の外面的な美しさなどは軽視し、また、何も知らないはずがないと彼は考えたからである。

 (幼いころのアルキビアデスは、ソクラテスを誤解し(美少年好きと思い)少年愛の作法にのっとりソクラテスに自分を教育してもらおうと考えたが、これは失敗し、今日までソクラテスに対して無力な存在となっている。)

 続いて話題をかえ、彼が軍人として、ソクラテスとともに参加した戦闘でのソクラテスの様子を語る。忍耐強さと、思索に熱中して立ち尽くす姿、勇気についてである。

 

おわり

  アルキビアデスの話の最後にはソクラテスの言葉についての言及もある。

 ここで、ソクラテスの話.3について掘り返す。

 知識の美しさに気づいた彼は、知恵を求める果てしなき愛の中で、たくさんの美しく荘厳な言葉と思想を生み出すとあるが、「知恵を求める愛」とはフィロソフィア、哲学である。美しいものと知識が一体化し、哲学の営みを通じて子が生み出されていくのである。

 このように、上昇の過程で生み出される言葉と思想が、知恵への愛、哲学の言葉となる。

 プラトニックラブの出所ともされるこのエロス論は、肉体的欲望を伴わない精神的恋愛ではない。肉体的、精神的欲望は連続し、精神的なエロスの背景にも情熱的な欲望が存在する。この欲望をもって、相手との精神的な交わりを行うことで、真実に至れるのである。

 最後に、アルキビアデスはソクラテスを通して美の梯子を上っていくことの難しさを描き出している。

 

 

 

楽に読めるので、本書を、読め!!!!