孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

ここ1週間まったく文章を書かなかった。ツイートもほとんどしなかった。

 

句読点の打ち方を忘れた。

 

いや、句点の打ち方は知っている。もちろん打てる。そうではなくて、どこに打つべきかわからなくなった。たとえば、直前の文における「そうではなくて、」のこの読点(、)が必要か否かわからない。「たとえば、」の読点もいるかわからなくなった。

 

読みかえせば違和感を感じることはできる。読点が多すぎる、または少なすぎるということがわかる。でもこの感じをうまく言語化できない。

 

少しわき道にそれる。ぼくは物事を、基本的に、イメージでとらえてる。線形写像のImではなくて、よくいわれるイメージでとらえてる。

こんな感じ。こんな雰囲気。大体こう。

だから論理的な厳密さが求められる場面でつまずく。たまにしんどい。

 

ここからがこの記事の本題。

最近、特にここ5年以内のことだと思うが、文章から感情を表す単語が消えたように感じる。ぼくの文章だけでなく、世間一般的なフランクな文すべてにおいて。

もちろん喜怒哀楽などを意味する単語は一応つかわれてる。「嬉しい」、「寂しい」、「嫌い」など。

だがそれ以上に、もっと広く感情を包括している単語が使われるようになった。「エモい」とか「尊い」といった語がコンテクストを踏まえてその時の感情を最もよく表す言葉として使われるようになった。

それで、さらにいうと、「🤔」とか「😇」のような絵文字が感情を表す語として使われるようになった。絵文字が単語にとってかわった。「このときの主人公の気持ちを答えよ」とかいうのにありがちな、変に長くかかれた文章より分かりやすいし、使われるのは当然といってしまえば当然のように思える。昔(インターネットが普及される前)はそもそも「😛」なんてものはなかった。だから書くしかなかった。今は「😎」だけで終わる。共通の背景を持つ人であればこれだけで伝わってしまう。

もう少し続ける。「w」や「!」も実質的に感情を表す語としてよく使われる。「笑」でもいいが、これらをいれるだけで文章が人間味を帯びる。すごい!なんて便利な文字たちなんだ!!!!こんな風にね笑

 

こんな感じで書いといて何か世間に訴えたいことがあるかというと、特にない。口語とも文語ともやや異なる文がこれから先どうなっていくのかなぁってちょっと気になっただけ。

 

これについて詳しく書かれた本を知っていたら教えてください。読みます。

 

それじゃ、おやすみ世界。