孤影悄然のシンデレラ

ぼくの思考のセーブポイント

書きたいことの1/10ぐらい書いて面倒になった

 Happy birthday to you
 Happy birthday to you
 Happy birthday dear XXXX
 Happy birthday to you
 n歳おめでとう~~~!パンパンパンパン(クラッカーの鳴る音)(性行為の擬音語ではない)

 

 高校の友人(この表記が気にくわないということがあったら「たまたま高校が同じだった人」のように書き換えるので言ってほしい)が今日誕生日ということでこんな冒頭にさせてもらった。

 自分の周りに限れば、誕生日が嫌いな人というのはいないように思える。二十歳になるまでは年齢とともに自身の成長を感じられるし、家族や友人から祝ってもらえるからだろう。

 三十、四十、五十と歳を重ねていくにつれて誕生日を迎える心境に変化はあるのか。ぼくには分からないが、これは親とか、祖父母に聞けばわかることなので(個体差(人によって思考に違い)はあるが)気になるならば身近にいる人生の先輩にでも聞けばいい。

 対数関数的に成長を感じられる人生において、いつかは自分の天井が見える。まぁy=logxはx→∞で発散するけど。

 八十、九十、......その先にあるもの。それが「死」。現在において、人はいつか必ず死ぬ。

 「死」とは一体?

 

 生きている我々は、第三者の死が自分にもあてはまるものとして、死を考えることが多い。生きている人目線では、第三者の死のみが観測できるからだ。

 自分の死というものは生きている限り経験することができない(経験するのは、死ぬときだけのなので)。空想するしかない自身の死について考えるのは無駄なことのように思われる(ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において死を「語りえぬもの」とし、直接の考察は控えている)が、書き始めてしまった以上最後まで書く。俺は(書くの)止まんねぇからよ、(以下略)。

 

 死について書くにあたり、最初にやるべきことは死という言葉の定義なのだろうが、これは意外と難しいことだ。wikipediaによると、「命がなくなること。生命がなくなること。生命が存在しない状態」、また「機能を果たさないこと、役に立たないこと」とある。

 仮にも生命理工学院に所属するであろう身からすると、そもそも「生命」とは、「生きる」とは、などと考え始めてしまうが、このようなことを考え始めると無限に(嘘で、十分長い)文が書けてしまうので、このような(面白そうだが大変な)話には首を突っ込まないことにする。

 結論として、死の定義をせずに(生物の定義が明確にされることなく最もらしい共通条件で括り生物が研究、語られるように死というものもふんわりとまとめて)話を進めるが、『ONE PIECE』(尾田栄一郎 著)に登場するDr.ヒルルクの(その状況も相まって泣かずには読めない名)セリフにある「人はいつ死ぬと思う......?(中略)......人に忘れられたときさ......!」が意味するような死は考えず、あくまでも生物的な死に限定することを断っておく。日本人であれば死に対する価値観がぼくと大きく異なるということはないだろうし。

 

 そもそもこうして死の定義すらままならないものにした現代科学に対して(死というものを素朴な物理現象として捉える現代に対して)、またこの現状に適応している我々人間に対して、ある種の畏怖を感じたりもする。

 この話題も始めると二元論などの話をする気がするし、長くなってしまうので省略。

 

 織田信長の「人生五十年......(以下略)」からも分かるように、戦国時代は人生五十年だったようだ。(幼いころに親に読み聞かせてもらった伝記の一節なので織田信長じではない説もある(戦いに行く前にお茶漬けを食べながら言葉を放った気がする。))

 では『論語』の「七十にして心の欲するところに従えども矩を超えず」から考えて古代中国では人生七十年だったのかというとそれは怪しいが、この話は本質ではないのでここまで。

 何が言いたいかというと、2017年の日本の平均寿命は男81.09、女87.26であり(ソースを掲示するのは面倒なので各自調べてくれ)、500年ほど前と比較すると伸びているということだ。(平均寿命が年々上がっていることは自明なのでこんなことに文面を割く必要なかった。)

 しかし平均寿命がのびた現代でも人は死ぬ。日本だとガンで死ぬ人が多いし、アルツハイマーにかかり自分が何者か分からなくなる人もいる。ガンの多くはDNAの複製ミスによるものであり、アルツハイマーは脳の細胞が生涯変わることがないことに由来していたりする。人は(神によって)いつか死ぬようにつくられたんだなぁと考えざるを得ない。

 最も、今年ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶博士のオプジーボのように、神に背くものが今後人類の手で開発されていくかもしれない。それでも、科学技術が無限に発達して不老不死になりえたとしても、いつかは人生に飽きて自殺するのではないかと。

 ちなみに神という言葉を使ったのは、文を書くに当たって都合が良いからで、ぼく自身はその存在は信じていない。少なくとも唯一神のようなものがいるとは思っていない。神の存在を高エネルギー集合体として解釈する立場をとっている。

 

 ところで、ぼくは死が怖い。死ぬのが怖い。ぼくだけでなく多くの人は死ぬのが怖いだろう。「いやいや全然怖くないよ」という人だって、いざ包丁を持ち今にも自分を殺さんとしている人間が目の前に現れたら怖いだろう。(もし「包丁持たれていようがおれが本気だしたらどんな奴だって敵わないよ」などと思ってるイキリオタクくんがいたら死ぬまでそう思っていればいい。)

 死が怖くない人の多くは、生きることに精一杯か(よく言えば充実した人生を送っているか)、死と向き合ったことない人(死について考えたことがない人、考える機会がなかった人)だと思っている。勿論世界的にみれば(宗教によっては)死を救済とするところもあるだろうが、一般的日本人目線で語らせてもらう。

 『DEATH NOTE』のリュークのような獰猛そうな見た目をした死神が迎えにくることを恐れているわけでも、閻魔大王に舌を抜かれることを恐れているわけでもない。古代エジプトにおけるオシリス然り、ギリシャ神話におけるハデス然り、生前の行いによって裁かれ死後の生活(死んでいるので死活?)が変わる話は世界中にあるが、これは昔(文明ができたばかりの頃だろうか)のお偉いさんが自分達の都合のいいように面白おかしくでっち上げた話だということは書くまでもないことだろう(書いたけど)

 最も、これを嘘だと断言することはできない。誰も死後なんて知らないのだから。(生前の記憶(死語の記憶)を持ってる人達が集まる村に住む人々をインタビューした『生まれ変わり村』(森田健 著)とかいうふざけた本がある。興味ある人は手にとってみるといい(おすすめはしない)。)

 では、なぜ死をおそれるのだろうか。

 

 全く知らないものについて恐怖するというのは変な話だ。いや、確かに知らないものは怖い。だが、「死について何も知らないから怖い」というのは一般的な状況における「何も知らないから怖い」とは全く異なる。例えば何か交渉するときに相手の持っている道具(交渉に使えるカード)を知らないのは怖い。試合をするときに相手の戦略や強みを知らないのは怖い。だが死についての知らないというのはこれらの例とは異なる、言うならば、アグラオフィトン・マヨール(aglaophyton major)は怖いといっているようなものだ。(最初期の陸上植物であるaglaophyton majorを知っていた一部の変態を除けば)aglaophyton majorに対して怖いという感情を抱くことはないはずだ。

 つまり、自分の死についてその断片すら知る人は誰一人としていないのに、人々は死を恐れていることになる。先程の例(包丁を持った人間に殺されそうになるということ)について、これに恐怖するのは死が怖いからではなく、包丁により傷つけられる痛みが怖いのだという人がいるかもしれない。確かに痛みについて我々はよく知っており、これをおそれるのは適当なことだろう。なるほどこの恐怖は死への恐怖ではなく、痛みへの恐怖かもしれない。しかしこれが包丁でなく、痛みなく死ぬようなものであっても、やはり恐怖するのではないだろうか(そうでなければ死刑が刑として成立し得ない)

 

 では、痛みではなく、一体何が死を恐怖たらしめるのか。

 生前に得てきた、関わってきた全てのものとの絶対的な離別だろうか。

 これは違うと思う。例えば、巨万の富を得た男が、死の直前に今までの自分の行いを空虚に感じたとしても、それは死そのものへの恐怖にはなりえない。同様に、今まで築いてきた人々との仲が切れることに対する感情、やはりこれも死そのものへの恐怖ではないだろう。このような感情すべてを包含して死への恐怖という人がいるかもしれないが、人付き合いが生涯全くない人だって(いるかわからないが)死に恐怖を感じるだろう。

 

 では、なぜ人は死を恐れるのか?

 "人間が生物だから"。ぼくは自身の恐怖についてこのように考えている。解としてこれは不十分なようで十分だろう。

 草食動物は生きるために、種を残すために肉食動物から逃げる。この逃げるという行為が果たして恐怖からくるもなのか、そうでなくて(感情を一切抜きにした)DNAに仕組まれたものなのかは分からない。

 人間も同じではないのか。いつか必ず迎えざるを得ない死に対して、生物的本能からそれを恐怖する。

 

続きはまた誰かの誕生日にでも書きます。